人は生物である以上死は避けられない。健康な体、衣食住に困らない生活、何不自由ない平凡な日々を送っている大多数の若者(私を含め)は死をどこか遠く感じる。年老いた後に訪れるようなものだと思い描いているのだ。明日死ぬかもしれないのに。
一般的に死期が近づいてくる年齢にもなると、遺書というものを作るようだ。昨今、終活という言葉を聞くようになり、その中で必ずと言ってもいいほど登場する。しかし、よく考えると遺書に関して知らないことばかりである。遺産相続において、親族での配分などを決めたようなもののイメージでしかない。思いをつづった手紙的要素はどれくらいあるのだろうか。
私はまだ若い。父方母方、両方の祖父母が健康でいてくれている。この上なくありがたいものだ。コロナ禍においてその存在だけでもうれしいものだと考えるようになった。しかし、私より年長者が先に亡くなるとは限らない。私が明日、事故や災害ましては事件に巻き込まれる可能性だってあるのだから。
そうなった場合、今までお世話になった人たちへ感謝を伝えられずに人生を終えるのは悔やんでも悔やみきれない。本当は常日頃から感謝の気持ちを伝えるべきなのだが、恥ずかしくてなかなか行動に移せないのは私の未熟さゆえだ。そこで私は遺書なるものを書いてみることにした。
そこで書き始めて思ったのが、感謝の気持ちだけを書き連ねることは私には難しいようだ。自分でいうのもなんだが私は比較的優しい一面があると思っていたのだが、真のやさしさはあまりなかったのかもしれない。ある程度感謝の気持ちを述べた後に、私が日頃考えていたことなどを書き溜めていくことにした。これはこの世界に残った人を思った中で、家族などを考えたときに、このようなものがあると少しは寂しさも癒えるのかなと思った結果である。私が生きた証を残したいということもないし、見るたびに思い出して悲しんで欲しくもない。
これを読むことで私に対する感情が変わることの期待もしていない。もし仮に死後の世界があり、そこで現世での私に対する好意のようなものがプラスに働くのであれば、ぜひともそれを読んで私に対して好意的な感情を持ってほしいものだが。死後に評価されるというのは私にとって全く名誉なことではないのだ。
最後に。遺書を書いて一番良かったこと(現在生きているため遺書としての役割はまだ果たしていない中で)は、お世話になった人たちへの感謝の気持ちがより一層強くなったことだ。死生観の違いはあれど、年齢問わず全ての人にオススメしたいと思った。そして、私が生きている間には絶対に見つからない様死守せねばならない。
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